記事の問いと内容
映画ジョーカーから感じる、あの「解放感」とはなんだろう?
この問いをより考えることのできるいい考察を紹介したい。社会学者の宮台真司によるものです。今回の記事では、彼の考察を引用してみたい。
ジョーカーという映画が持つ、なんともいえない力に迫ってみる。
興味がある人は、ぜひ目次に目を通してみてほしい。
映画が描く「絶望」の質が変わってきているのはなぜか
こちらの動画から引用させてもらう。映画の考察にあふれたとても為になる動画だった。
宮台真司が読み解く「ジョーカー」のキモ
動画より、宮台真司によるジョーカー評をまとめさせてもらう。
今作のジョーカーのポイントは、「解放される」ということ。
解放されるプロセスがダンスのように描かれる。(ダンスと並行する)
何からの解放かというと、善悪、法の枠組みからだ。
「ダークナイト」のジョーカーは、人を悪に導くことが愉快でたまらない。社会に善人はいない。損得マシーンしかいない。善人らしく振舞うことが得になるから、みなそうしているだけ。
社会学者のトマス・ホッブスは、なぜ社会の中に秩序があるのかを説いた。
損得マシーンしかいないこの社会になぜ秩序があるのか?それは、その方が得だからだ。経済に秩序がある方が、全体の得がなりたつ。
ダークナイトでは、ジョーカーからのバットマンへのメッセージはこうだ。
「お前もこの社会に善人などいないことを知っているのに、どうして幻想を守ろうとする?お前も俺の方に来いよ。」
善や秩序があるなんて嘘だ。
どうしてこのような「倫理的な」ジョーカーがうまれたのか?この視点で今作の「ジョーカー」を宮台真司は読み解いている。
偶発的に悪を成したことで、アーサーは弱者が守られるなんていうのは幻想だということに気が付く。悪を犯すことが解放になった。善や秩序が嘘だということを実感した。法の外に出る。
なぜこんなにも生きづらかったのか。その理由は、善や秩序というウソを信じ込まされていたからだとアーサーは体感する。
このアーサーのふるまいに、感染、同調するものが増えていく。
格差が広がり、努力だけではむくわれない社会になってきている。這い上がれない社会。この社会にかろうじて存在する「解放」を描く。
ジョーカーのような存在が出てくることがむしろ倫理的になる可能性がある。
奴隷なのは私たち
ジョーカーのような存在のほうが、わたしたちよりも倫理的。この逆転は興味深い!!
もう一度確認するが、わたしたちのほとんどは「損得マシーン」なのだ。善という動機付けをもっていない。社会というゲームのなかでの振る舞いによる「損得計算」の結果、ある程度の秩序が保たれているのだ。つまり、わたしたちは、道徳よりも損得計算で動いている。
そうなると、道徳的、倫理的ということの意味にもよるが、ジョーカーのような法の外にはみ出る存在のほうが、わたしたちよりもよほど倫理的、道徳的なのではないか?
これは、犯罪の肯定をしているのではないと思う。白か黒かではなく、法を破るということにも、多様な意味があるのだということだろう。
法を破るかどうかが、良いか悪いかということに一対一対応しているわけではない。
しかし、間違いないことは、法や言葉にただ従っているだけの人間はほとんど機械のようなものである。まさに、AIで置き換えられるような存在である。
感情が劣化した奴隷
宮台真司氏もよく言っているが、大切なのは「感情」である。
だから、いいかえれば、ジョーカーのような存在のほうが、私たちよりもよっぽど「感情力」がある、と言えるのかもしれない。
損得ゲームでなりたつ社会の耐用年数がそろそろ限界にきている。資本主義による軋みが、世界のいたるところで「格差」となって現れている。
奴隷からの解放。そのポイントこそ、強い感情なのだろう。
それならば、人間らしい感情とはなんだろう?
ここは、とても難しいように思える。簡単だが伝えにくい、そんな問題な気がする。
言葉ではなくイメージでとらえてもらいたい。
満員電車に詰め込まれたクタクタで覇気のないサラリーマンたちの表情。これこそ、奴隷ではないか?感情を自ら消しているように見える。
一方、その逆に強い感情とはなんだろう?
そのヒントとして、宮台真司氏が語る次の問いを考えてみることは大事ではないか。
絶対の絶望の中にいながら、ブルースウェインは人々の幻想を守ろうとする。その動機はなにか?
絶望というあらがえぬ現実に対する人の意思。その意思を持続させる感情。
うまく言えないが、「力強さ」を私は感じる。
もう一度、ジョーカーとダークナイトを見比べてみたい。
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