記事の内容「妻、ヤスコの視点から」
『クリーピー 偽りの隣人』という映画を今回は紹介したい。
はっきりとわかりやすいストーリーではなく、世間での評価はあまり高くはない。けれど、個人的にはいろいろと感じるものがあり楽しめた。だから、今回は、次のような視点からこの映画を解釈してみたい。
主役は、妻であるヤスコではないか?
この映画は、彼女の叫びで終わる。この叫びから何を感じとるのかで、この映画の評価は大きくわかれそう。
あなたは、あの叫びに何を感じただろうか?
私なりに解釈してみたい。
夫である高倉も異常
高倉も一種のサイコパスだろう。
(サイコパスという言葉を多用するが、厳密な定義ではなく、一般的なイメージで捉えて欲しい)
彼の言動に違和感を感じた人は多いはずだ。何かが欠けている。彼は、被害者や妻ヤスコの感情を真の意味で理解できていない。共感できていないのだ。社会適応型のサイコパスと言える。
そんな夫と生活しているのがヤスコだ。
もともと妻は疲弊し、結婚生活はうまくいっていない。この妻ヤスコの気質として、サイコパス的な男に惹かれるところがあるのかもしれない。
彼女の性質は「依存」だろう。その対象として、サイコパス的な強い振る舞いをする人物がちょうどいい。
サイコパスは人たらしでありモテるという指摘もある。そんな夫に惹かれたのが、彼女だった。
西野の「落とし穴」
薬物による洗脳で、通常の人を「彼岸」へと導く。
この「彼岸」とは、「もうどうにでもなれの世界」とでも表現したい。
その世界では役割が与えられる。その役割は自分自身を縛る。非日常な分、強力である。「もうどうにでもなれ」の極地にいる人間は、未来に期待することをやめている。だから楽なわけだ。日常生活のような時間軸から解放され、いっときの自由を味わえる。
しかし、その自由は西野という教祖に依存している。
西野は、他人をコントロールしたい欲が強いようだ。支配欲こそが、彼の行動原理なのかもしれない。これまでの人生、彼はコントロールできる他者以外を見ないようにしてきたのではないか?
だから、コントロールできない他者の存在こそが、彼にとっての盲点になる。
高倉が突いた「落とし穴」こそが、その盲点だ。
ラストの叫びの意味とは?
ヤスコの叫びは、どう解釈できるだろう?私なりに感じてみる。
叫びは、「気づき」だ。
他者に依存して生きてきた自分自身のこと。
夫の異常性。
これも、「もうどうにでもなれ」の極地でもある。しかし、依存型と比べて、こちらは現実を受け止める覚悟がある。未来を受け止めている。
私が生きているこの社会のヤバさはやっとわかった。幻想に逃げるのではなく、この社会で生きるしかないぞ、という覚悟だ。
この「気づき」こそ、この映画全体の雰囲気から湧き上がってくるイメージだ。
私はそう感じた。
西野と高倉の違う点は?
高倉
他者に興味がない。興味を持てることだけに熱中し、周りを顧みない。
西野
他人を支配することで生きている。そうすることでしか、社会の中にいられない。それ以外の他者とのかかわりを知らない。
この映画の核となるメッセージは?
この現実に「気づけ」ということ。
そして、その気づきのきっかけは、社会からはみ出しているモノ、社会の外側の存在だ。
それでは、その見えていない現実とはなんだろうか?
それは、否定神学的なものだろう。否定する形でしか見えてこないもののことだ。
いま日常を生きているこの社会が都合の良い幻に過ぎないということ。損得にまみれたクソ社会だ。そして、本当の世界の姿とはそうではない何かがあるということだ。その事実に、ヤスコはラストに直面してしまう。そこで、この映画は終わる。
本作の監督は、黒沢清だ。
わたしは、彼の作品である『CURE』が好きだ。本作とも似たようなテーマを感じる。
「社会=日常の外側が侵入してくる」感覚である。まだ見ていない方は、ぜひおすすめしたい。
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