記事の内容
先日、アベマプライムの放送にてまた面白そうな回がありました。テーマは、「字を書くことの是非」です。字を書くことが減っている現在、このテーマはかなり興味深いですよね。
ひろゆき、直木賞作家の阿刀田高さんなどが議論しています。
地位のある高齢者にも容赦なく突っ込むひろゆきがみれた回でしたね。キレキレすぎ(笑)
この記事では、放送の論点の整理と感想をまとめます。
- 記事の内容
- 字を書くこと、全員がやらなくてもよくない?
- 字を書くことは必要か?
- 教育プログラムに劣等感が含まれる
- 社会的動物である私たちは劣等感から逃げられないか
- 比較することと感情を分ける
- まとめ
- 関連記事
字を書くこと、全員がやらなくてもよくない?
今回のテーマは次の三つでした。
・字を書くことは必要なのか
・漢字を覚えることは必要なのか
・綺麗に書く習字は必要なのか
ひろゆき
「字を書くことも、ギターを弾くことと同じで、全員がやる必要はない」
ひろゆきのこの発言は、問題提起として重要だ。
今回、好印象だったのが阿刀田さんの態度だ。私のいうことにエビデンスはなく、私はこう思うということを述べる、という注意を自分で入れている。このおかげで、客観的ではない説を発する瞬間があるものの、押しつけがましいわけではなかった。
エビデンスなく自分の主張を押し付けてくるタイプ、これは権力と地位がある人に多い傾向があるイメージだ。よって、阿刀田さんのような態度はありがたい。
字を書くことは必要か?
阿刀田
「大人ではなく、脳が作られる若い人に便利なものを与えすぎるのはよろしくない。デジタルな文字では、熟慮がなくなってしまう。」
ひろゆき
「デジタルな文字だと熟慮がなくなるというのは、阿刀田さん個人の話では?みんなに押し付けることではない」
阿刀田
「個人差はある。ただし、子どもについては、書くことによって身につく体験は重要。答えを出すまでに手間がかかるという体験が大事。」
阿刀田さんが言わんとしていることには共感できる。ただし、小学生にとって、「字を書くこと」と熟慮との間にどこまで関係があるのかは謎だ。小学生にとって、字を書くことがなければ、熟慮はありえないのか?スマホのようにデジタルに入力することでも、熟慮はできるのでは。
この問いを考えるには、小学生という脳の発達過程の特徴を抑える必要がある。発達段階の脳にとって、字を書くことの与える影響はどの程度のものなのか?良い影響か、逆にマイナスな影響を与える可能性もある。よって、この放送の現場に、脳、心理の専門家を招くべきだったろう。
しかし、注意が必要な点もある。ここには「熟慮する力は望ましい」という前提が入り込んでいる。それならば、現在の教育の現場はその前提を大事にしているのか?たとえば、暗記ドリルなどに割かれる時間が多いならば、熟慮の力を養うことと両立しないのでは。熟慮する力を養うことが目的ならば、字を書くことを続けることよりも、カリキュラムの内容を見直した方がいいのでは、という意見も出てくるはず。
だから、そもそもの教育の目的論とも関わってくる話になるだろう。
教育プログラムに劣等感が含まれる
若新さんの指摘も重要だとおもう。
「ギター弾けないのは恥ずかしいから、ギターを習うのではない。うまくなりたいから習うのだ。字を綺麗に書けないことが恥ずかしいことだ、と思わせてしまう教育プログラムがよくない。点数をつけたりすれば、綺麗に書けることが良いという価値観を植え付けてしまう。綺麗に書くことよりも、正しく伝えることのほうが本来の目的なのでは」
彼の意見を解釈するとこのようにまとめられると思う(大きなミスがあったらごめんなさい)。
字を書くことだけではなく、スポーツや勉強のテストなど、とにかく順位がつけられ周りと強制的に比較されてしまう。これが学校の実際だろう。
義務教育の場面で、劣等感による不自由をうむことはできるだけ避けたい。完全にゼロにすることは不可能だが、「字を綺麗に書くことは良い」などの比較的変えやすいものは、変えていくべきだとおもう。
社会的動物である私たちは劣等感から逃げられないか
ただし、これは義務教育の現場だけに限った話だろうか?大人たちの社会にも、周囲と比較させ劣等感を抱かせる装置がたくさんある。美容、年収、地位、住んでいる場所など、劣等感を抱かせることこそ、競争社会の本質でもある。広告のほとんどはこうした劣等感、不安誘発装置だ。
これが、資本主義社会に限らず、人間の歴史上ずっとつづいてきた社会の本質なのかもしれない。すると、人間が社会的動物である限り、劣等感を感じることはなくならない。
比較することと感情を分ける
対処法をおしえるという解決策しかないのではないか。劣等感を色々な面で感じてしまうのはさけられない。だから、感じてしまったなら、こう考えましょう、そうすれば、幸福感が高まり、人生楽しむことにちかづけますよ、と。しかし、この方法こそ個人差が大きい。なかなか普遍的なこと教えるのは難しそうだ。
いくつかの宗教では、こうした方法論を説いている。しかし、それを現代の教育の場で教えることは基本的にできない。
他者と比較することは基本的に避けられない。しかし、比較することと感情を切り離すことはできる。あの人は偏差値が70、僕は50。うん、そうだね、で終了させてやればいい。ここに、マイナスな感情は発生していない。
個人的には、もともとこのようなタイプだった。けれど、そうでない人はどうすればこの態度をとれるようになるか。だれにでも当てはまる方法論はわからない。
まとめ
確からしい答えはでません。問いをまとめます。
・字を書くことも、ギターを弾くことと同じで全員がやる必要はないのでは
・若い人の脳にとって、書くことは良い影響をあたえるのでは
・「字を書くこと」と熟慮との間にどこまで関係があるのか
・きれいな字を求める教育は、不要な劣等感を抱かせるのでは
・社会がある限り、劣等感からは逃れられないのでは
みなさんはどう感じたでしょうか?
関連記事