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【東浩紀が語る】なぜ哲学書、思想書を読むのか

記事の内容 本記事のイシュー

 

「科学の知と哲学の知は、どのように構造が違うのか?」

 

 

 

 

東浩紀が語る、科学と哲学の知

 

本記事では、哲学者、思想家である東浩紀氏が、思想というものの知について語っていたことをまとめたい。

 

哲学はどういう知の体系なのか、科学と比較することでわかることがある。この観点から、東浩紀が説明してくれる。

 

本記事を読み終えると、科学と哲学について一歩深く考えられるとおもう。それでは、目次をごらんください。

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ思想、哲学を学ぶべきか

 

ひろゆき氏の疑問に答える形で、東浩紀氏が答える。

 

 

・なんで思想書読むの?byひろゆき

 

何が面白くて何が面白くないのかという問題になる。


快楽には、2種類ある。
その場でくるものと、溜まって後からくるもの。

思想書は、後から快楽が来る。

 

 

・科学の本は役に立つが、思想書は、「個人がこう思っていたんだ、ふーん」で終わってしまう。byひろゆき

 

何回も反復可能なものについての知と、一回しかないものの知というのは、構造が違う。

ある人間についてわかることと、人間一般についてわかることは別。


知が応用可能とは、反復可能だということ。

反復可能かどうかの区別が、大雑把には文系理系の区別になる。

 

哲学、思想が科学にならないのは当然。

科学というのは、反復可能であるという条件を入れた。反復不可能な智は、外側に押し出された。

 

 

 

 

 

まとめると、

 

思想書を読む理由は、

 

楽しいから。

思想・哲学は、科学とは異なった構造の「知」を学べるから。

 

 

 

 

まず、楽しいから

 

彼の答えとして、まず「楽しい」から、という理由を持ってきた点は共感できる。

 

役にたつから、勉強になるから、という義務的、外面的な理由ではない。

 

その個人の素直な気持ちである「楽しい」という部分に注目している。

 

ケーキを食べ歩くのが好きだったり、サッカーが趣味だったり、それと同じレベルで、哲学書だって立派に楽しいものなのだ。

 

根源的には、個人が何を選ぶべきかは、個人が何を楽しいと思うかで決めればいいのかもしれない。

 

なんでそんなの読むの?

どこが役立つの?

 

なんて質問されたとしても、「楽しいから」の一言で済む。本来はそれでいいのだろう。

 

この質問の場面においては、思想書や哲学書の役立つ面を補足してほしい。この点が、彼の思想家としての期待される役割だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

哲学と科学の違い

 

科学の条件が反復可能であること、というのは解りやすい。

 

科学法則という言葉があるように、法則とは、いつやっても、誰がやっても同じような結果をもたらすもののことだ。

 

この反復可能であるという条件を守るために、科学は様々な制限をして体系化してきた。

 

物理学や数学の教科書をひらいてみるといい。そこには言葉の定義でびっちりだ。つまり、この学問ではこれだけを扱いますよ、と意味を限定している。

 

つまり、科学が当てはまるのは、ひどく限定された領域だけだ。その領域内であるならば、科学の有効性は概ね認められている。

 

しかし、その限定性は科学の不完全性を意味する。この不完全性は、決してマイナスな意味だけではなく、科学をさらに発展させるものでもある。

 

武田邦彦はこのようにも言っている。

 

今のところ、〜だと思われるのが科学。

明日にも、科学の常識は変わる可能性もある。

 

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科学を哲学する

 

そんな科学そのものを議論する、科学哲学という学問もある。

 

私たちは、科学の主張ををほいほい聞いてしまいがちだ。

 

けれど、科学の方法論には実はまずいところもある、だからもっと議論すべきなのだ。

 

科学の柱である、演繹法と帰納法にも、重大なツッコミ所がある。以前にも、科学哲学については考えている。

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帰納と演繹、これは耳にしたことがあると思う。この2種類の方法こそが科学を進めていく柱になっている。にもかかわらず、帰納と演繹への批判は大きい。ここでは、帰納を考える。

 

太陽は東から昇るが、明日もそうなる保証はない。「これまでこうなってきたから明日もそうなるとは言えない」のである。つまり、帰納法を経験的に正当化することはできない。帰納帰納で根拠づけることになり、循環になる。

 

ある推論方法によって、その推論方法自身をどうやって正当化できるというのか。

自分の靴紐を引っ張って自分自身を持ち上げるようなものだ。この例えは、「ゲーデルエッシャーバッハ」に出てくるもので、私は気にいっている笑。

 

 

 

 

なぜ思想、哲学が役にたつか

 

彼の説明では、なぜ役にたつかという点は、あまり説明されていない。

 

私なりに色々と考えてみる。

 

哲学からは、個人の葛藤の積み重ねの歴史という知と、論理に基づく普遍さを目指す知の両方を学べるのではないか。

 

つまり、

この世界と人間そのものを学べるのではないか??

 

 

次の記事でも考えたテーマをもう一度載せておく。

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個人の欲求、想いを救うための思想。
 
誰でも同じ答えを得るための論理。
 
これら2つが絡み合っているのが哲学だと思う。
 
けれど、個人の情緒を救おうとしつつ、普遍的な論理も求めているというのは矛盾しかけない。その微妙なバランスのせいで、学問的には批判も多い。「哲学なんか科学じゃない」と。
 
しかし、哲学は、それら矛盾しかねない両方を包摂し、議論していく。その揺らぎこそ、とても人間らしくはないだろうか。

 

 

 

 

 

東浩紀おすすめ本

彼の著書もどんどん読んでみたい。深く勉強できる本がたくさんある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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