記事の内容
アベマプライムにて、キラキラネームについての回が放送された。
「読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高い」というひろゆきのツイートが発端になっている。
親の知能は子供に遺伝します。
他人が自分の子供を呼ぶために、名前をつけるのですが、一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いです。
よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高いです。と言う話をしてたら、また実例が増えました。
この主張について、「名前の付け方」を研究している小林さんと議論する。
今回の記事では、この放送の整理をするとともに、個人的な感想をまとめたい。
- 記事の内容
- ツイートに対する専門家の見解「間違ってはいない」
- 対立していないのに、なぜ対立しているように見えたのか
- 読めない名前をつける親は頭が悪い可能性が高いのか?
- キラキラネームは、親のコンプレックスのせい?
- 名前も自由になるのでは?名前の哲学へ
- まとめ
- 関連記事
ツイートに対する専門家の見解「間違ってはいない」
専門家である小林さんの見解を自分なりにまとめる。
間違ってはいないと思う。
ただし、「読めない名前」という部分については慎重になるべき。
理由
・日本の漢字による名前は何通りにも読めるため、読み間違いが起こりやすい
・「キラキラネーム」の定義が人によって異なる。だから、そのツイートはミスリーディングを起こしやすい主張になってしまう
・新しい名前が増えてきている。それらすべてを、光宙(ピカチュウ)のような典型的なキラキラネームのイメージでひとくくりにして議論してはいけない
番組を私がみて、解釈してまとめたものなのでミスがあるかもしれない。
感想としては、小林さんの説明はややわかりづらい。何を一番言いたいのかが伝わりづらかった。
対立していないのに、なぜ対立しているように見えたのか
小林さんは、ひろゆきの見解を否定してはいない。だから、対立構造になっていない。
けれど、番組を見ていると対立しているように見えてくる。なぜだろう。それは、ひろゆきの攻撃的な姿勢のせいだ。相手の意見のあらさがしを無理にしているように見える。これも番組をもりあげるためだろうか。
小林さんもキラキラネームのデメリットそのものは否定していない。彼は、キラキラネームの定義と、定義することの難しさを話したいのではないか。その新しい論点について、ひろゆきと協調して議論が深まるとなおよかった。
例えば、
「キラキラネーム」を定義することは原理的に可能なのかどうか
を深ぼれば、次のような問いに行き着くと思う。
・キラキラネームにデメリットがあったとしても、名付けることは親の自由の範囲か
・名づけるとはどういう行為なのか
・人とその名前との関係とは
こうした深い話にじつはつながる問題だとおもう。ただし、もちろん番組の中では時間が無いので難しい。
全体的な感想としては、対立していないはずなのに、議論が深まらなかったのが残念だった。
読めない名前をつける親は頭が悪い可能性が高いのか?
ひろゆきの主張の柱は、この論点だろう。
これは妥当な主張なのだろうか?この事実を確かめるような研究があるのかどうかが鍵になる。だから、討論の形にしたいのであれば、このテーマを研究している専門家を呼ぶべきだったろう。
研究データがあり、この論点が否定されるなら、ひろゆきのツイートは否定される。
しかし、研究データがあるのかどうかは分からないが、一般的な感覚として多くの人がこの仮説をだいたい正しいと感じているのではないか?そういった一般的な感覚をふまえて、ひろゆきは主張を組み立てているのかもしれない。
キラキラネームは、親のコンプレックスのせい?
興味深い記事を発見したので紹介する。
捕まった「ワタナベマホト」の本名は“摩萌峡” 命名研究家は「キラキラネームの因果」(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
その記事で紹介されている命名研究科の意見だ。
・キラキラネームを名付ける親は「名前の意味より音を重視する」傾向がある
・キラキラネームをつける親は、真面目で没個性的、付和雷同型の人が多い
つまり、親のコンプレックスが子供の名づけに反映されている、という仮説です。親が、自分に個性がないことをコンプレックスに感じているので、子供に個性を求めてしまうということだ。
「親が自分にできないことを子供に求めてしまう」 というよくある現象のひとつだろう。しかし、これは不幸をもたらす可能性が高い。たとえば、学歴がない親が、高学歴になることを子供に押し付けてしまう。子どもの自由を侵害している。だから結果的に、子供に恨まれることもある。
「親が自分にできないことを子供に求めてしまう」ということは、基本的に避けるべきことだとおもう。なぜなら、親、子、双方の幸福を遠ざけてしまう可能性が高いからだ。
名前も自由になるのでは?名前の哲学へ
現在、本名を変えることは基本的にはできない。けれど、親に決められた名前で一生を過ごさなくてはならない理由はないのではないか。よく考えてみると、なぜ一つの決められた名前で生きることを、皆当たり前だと感じているのだろう?
SNSが発達し、みんな自由にアカウント名を考えて使っている。本名は変えられずとも、本名なんかほとんど使わない社会にもうすでに移行しつつあるともいえる。自分の付けたい名前を自由に使える社会が来るのかもしれない。自由をもとめる傾向が強い社会であるのならば、名前の自由というところにも行き着くはずだ。
そうなると、人と名前との関係の本質が気になる。人にとって、自分自身の名前とはどんな意味をもつのだろうか。たとえば、名前のない人間、個人という存在は可能なのだろうか?あったとして、どんな影響がでてしまうだろうか。
哲学、心理学から深掘りしてみたい。面白そうな本を紹介しておく。
・名前の哲学
・名前に何の意味があるのか:固有名の哲学
まとめ
・読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いか?
・キラキラネームは親のコンプレックスのせいか?
・親の自由と子供の自由、名づけの観点からはどちらが優先されるべきか?
・名前すら自由に自分で決めれる社会になるのでは?
・人と名前の本質的な関係とはなんだろう?
これら問に対する、確実な答えはわかりません。考え続けていきたいですね。みなさんの考えるヒントに役立ったのならうれしいです。
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