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「心の哲学」批判序説【本紹介】意識は無用なんかじゃない!

記事の内容

 

今回は、心の哲学に関する新しい知見を紹介したい。

「心の哲学」批判序説、という本だ。

 

 

心の哲学において、論理的可能性や思考実験による議論は強い。

しかし、本書の著者は、事実性を重視する。私たちの意識の具体的で現実的なあり方を離れてはいけない、と。日々生きている動物的な意識を無視してはならない。実践のための意識なのだから、生物学的な条件に拘束されている。

 

「意識の無用説」を批判するために、著者は現象学と進化論を柱としている。

 

物理世界の閉鎖的な因果性という、いまや誰でも素朴に信じている考え方からは、意識とは無用なものに過ぎないという結論が導かれがちだ。意識から物質への因果の流れは否定されてしまう。

 

著者は、そうは考えない。意識は、物質、つまり身体に因果的な影響を与えられる、と主張したい。

 

心が物質にどうして影響を与えることができるのか?

 

この難問を肯定的に解くための、方向性を示すことが本質の狙いだという。

 

 

 

 

 

 

意識を解くための方向性

 

本書あらすじ

 

認知科学、神経科学の隆盛によって、
あらためて注目を浴びる「心の哲学」は、
奇妙な主張をしている。
「意識は物質世界の一領域である」
「意識は自由な意思決定能力をもたない」
本書はこういった議論に真っ向から対峙する。
現象学的立場と進化論的議論から、
心理学的意識と現象学的意識の
本質、起源、その有用性の検証へ――。
繊細にして雄大な、意識世界を辿る。

 

 

先に本書の結論から、何点かまとめさせてもらう。意識の謎を解くために、著者が無視してはいけないと考えている点だ。

 

現象学、進化論がベースになっている。

 

意識は単に自由意志をもつかのように見えるだけでなく、真の意味での自由意志の機能をもたねばならない。そして現象的意識は心理学的意識の機能としての意志を介して行動に影響を及ぼせるのでなければならない

 

 

意識の典型的なあり方は、背側経路が担う行動のための視覚のような、そのつどの機能に即す役割を果たすことではなく、「自然」の知覚に見られる、そのつどの実践的意味から解放された世界の自体的あり様の知覚である

 

 

意識は知覚的情報処理の構造を反映している。とりわけ、メルロ゠ポンティの言う「知覚的信念」の表すような構造である。その限り意識は世界に特定の存在論的意味をあたえるものであり、客観的世界の忠実な鏡ではない

 

 

心の哲学において、

意識から物質への因果が解決したい謎だ。しかし、この大きな謎の核心は残る。

 

著者は、心の哲学における有力な仮説である意識の無用性を本書で批判したいのだ。

 

それは、本質においてどこまで成功しているのだろう?

 

進化論的に見て、生存するために意識が無用ならば残るはずがない、とする意見は根拠が強い。だから、意識が実際に自由に行動に関われるという点も強調している。意識の無用説を批判したいのだ。

 

以下では、現象学的な見方から何点かまとめてみる。

 

 

 

 

 

メルロ=ポンティの二つの実存

 

・実存 

目的持って生きている私自身のこの行動のあり方。実践のための認知。私たち動物は世界とかかわることによって生を維持する。そして、実存は身体に条件づけられる。身体こそが、世界に意味を与える元。身体をベースに家やビルの大きさが分かる。

 

・身体的実存

無意識の実践と認知活動のこと。自転車でバランス取ってくれたり。習慣的なもの。

・人格的実存

ふつうの「私」のこと。

 

この二つの実存は、チャーマーズが言う意識の2側面と対応しているわけではないことに注意。

 

 

 

 

「自然」

 

私とは関係なく独立にあるであろうもの。

 

これは、私の知覚が意味を与える世界=実存とどう関係するのか。主体の意識の向け方、関心の向け方によって分ける。しかし、さらにその外側に広がる自然、動物も感じるような自然もあるはず。実践に無縁であるかのように見えるものが自然だ、とざっくりとイメージできる。

 

「自然的世界」とはそういう生の形であたえられ、それゆえ汎用性をもつ諸対象の世界である。こういう仕方で、自然的世界は直接実践的意味をもたないものの、実践に対して素材を提供しており、その意味で実践と無縁ではない。別の形で実践に備えているだけである。

 

 

 

 

 

 

腹側と背側の2経路

 

知覚のための視覚、行動のための視覚に分かれている。進化論的に知覚のための視覚の方が、後からできたものだ。この二つの経路は、メルロポンティの二つの実存と対応しているようにみえる。

 

しかし、実存がどのように身体細部をコントロールしているのかという問題が残り、本書の中心的なテーマである問題につながる。

 

視覚の総合的な働きこそが意識を生むことにつながったのでは、とメルロポンティは推定している。

 

 

 

 

 

意味と身体とのギャップ

 

身体的実存は、どのように意味を学習できるのか。そして、どうして人格的実存はその学習をコントロールできるのか。

 

たしかに身体は意味的目的的に活動する。しかし意味的レベルと、身体を実際に動かす筋肉作動などの機械的レベルとのあいだに大きな懸隔があり、両者を埋めることは難しい。

 

「教師あり学習」に注目する。

 

その場合、教師とはある意味のことだ。それならば、意味はなにによって与えられるのか。

 

身体的実存にも、意味は持てる。しかし、人格的実存における意味と質がやや異なる。

 

意味と身体下部とのギャップを埋めることが、本書の最大のテーマにつながる。だから、教師あり学習モデルを想定しても、穴が残る。教師役の意識が物質に介入する接触がどうして可能なのかということが解明されていない。

 

 

 

 

 

 

意識が世界に与えるものとは?

 

・主観的確実性

思考は、知覚全般を否定できない。知覚できていることの前提そのものなのだから。知覚世界全体はひとまず受け入れるところからしかスタートできない。

 

知覚世界の外に出ることは一歩もできない。錯覚なども、知覚世界そのものを揺るがすわけではない。

 

知覚世界に、真偽という意味を当てはめることはカテゴリーミステイクということだろうか。

 

 

・知覚の直接性

ミカンそのものとして知覚することは、ミカンとして理解することと同じではない。

 

この意味で、知覚には存在論的な意味がある。意識を実存という枠組みの中で理解するべきだ。この存在論的な確実性が、実践することに役立つ。もののそのもの性、知覚の直接性は、無意識の処理ではなく、意識において実践のために利用されると考えられる。

 

普段の生活における行動の信頼性、安心感の基礎こそが、意識に現れる「もののそのもの性」ではないか。

 

 

 

 

 

クオリアと知覚表象

 

ドレツキは、知覚表象を客観的な物理世界に関わるものだと考えている。クオリアを物理世界の中で説明しようとしているのだ。これは、著書が重要視する知覚的信念によって構成された主観世界とは相入れない。

 

見ることと頭で理解することは別。知覚は理性によって見ることではない。錯覚は、知覚の世界では正しい見え方。

 

知覚があたえる姿は、客観主義的には「主観的な現れ」と評価されるであろうが、知覚する私にとってはそれがただちに「対象そのもの」なのである。そういう存在論的性格をもってあたえられている。知覚の間違いを証言するのは別の知覚であって、知覚とは次元の異なる客観的対象ではない。

 

 

 

 

さらにくわしくは、ぜひ本書へと進んでみてほしい。

 

 

 

 

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