記事の内容
森博嗣の小説である『喜嶋先生の静かな世界』。
この小説には、もとになった作品が存在しています。それは、97年発売の短編集『まどろみ消去』に収録されていた作品です。
こちらの短編集では、タイトルは『キシマ先生の静かな生活』になっています。微妙にタイトルが異なるのです。
今回の記事では、この小説の内容をまとめ、微妙に異なる両者を比較します。そして、本作を読んだ私の感想を書いていきます。
もちろんネタバレが含まれますので、まだ読んでいない方はご注意を。
それでは、目次をどうぞ。
短編ver『キシマ先生の静かな生活』
短編らしくあっという間に話が終わる。余計なエピソードはなく、語り手である僕とキシマ先生の最小限のかかわりだけがある。
僕についてのパーソナルな掘り下げはない。キシマ先生の人柄がわかるシンプルな話で構成されている。
メインの登場人物も、僕、キシマ先生、沢村さんの3人だけだ。そして、物語の帰結もこの3人のかかわりの終着になっている。
物語の流れと結末は、短編と後の小説verでほとんど同じだ。
どちらでも、キシマ先生の奥さん(おそらく沢村さん)が自殺してしまうこと、キシマ先生の消息が分からなくなってしまうことが同じだ。
この急な結末に、初見では驚いた人も多いと思う。
それでは、この短編verと比較して、『喜嶋先生の静かな世界』のほうの内容をまとめてみる。
『喜嶋先生の静かな世界』と比較
まず、語り手である「僕」の素性も丁寧に描かれる。名前は「橋場」だという。そして、彼の恋のエピソードも追加される。
同級生である清水スピカと結婚するまでの過程が描かれているのだ。異性との触れ合いの経験もなく、一般的な男性の思考からずれた彼の完成が見どころだ。妻になるスピカとの交流をとおして、彼がどう変化していくのか。森博嗣ファンならばイメージしやすいかもしれない。
そして、もう一つの変更点が、櫻井さんという女性の存在だ。彼女も喜嶋研に所属している。彼女の役割は、女性独自(と思われる)視点の導入である。女性視点が、制約の多い社会の不条理さや、現実社会で生活していかなくてはならないという事実を際立たせている。キシマ先生が歩む理想、つまり研究者の姿勢とは真逆だ。彼女はその象徴といっていいいだろう。
森博嗣が設定するこうした女性像にたいして、みなさんはどう感じるだろうか?典型的すぎるような気もする。けれど、わたしたち読者の想像力に合わせてあえてそうしたキャラにしている気がする。
メインの流れやエピソードは同じなのだが、主人公とキシマ先生の交流がより濃密に描かれている。具体的には「思考」である。森博嗣節の、純度が高く鋭い思考が素晴らしい。「研究すること」に関するテーマが多い。研究することの喜びをじっくりと感じれるのは、『喜嶋先生の静かな世界』の方だと思う。森博嗣が考えるあらゆるエッセンスが詰まっている。好きな人にはたまらない名言の数々が見られる。
キシマ先生の言葉
彼の言葉でもっとも印象的な言葉は、「学問には王道しかない」というものだろう。
この言葉の意味を、みなさんは実感できただろうか?
私なりに解釈してみたい。
とにかくまずは「本質へ」という姿勢ではないだろうか?いいかえれば、説くべき問題の大きさ、重要度の高さを求める姿勢だ。イシュー度の高さといってもいい。
たいがい、それらは解きやすい問題であるとは限らない。つまり、その道へ進めば抵抗が大きくなる。
私は何を解くべきなのか、見つけるべきなのか。人生をかけて。
この直感を磨くことこそ、橋場くんがキシマ先生の振る舞いから学んだことだと思う。それは、まさにどこにも書かれていない、言葉で伝えることがむずかしい感性である。
数学者が言う、「数学とは感性である、情緒である」という言葉とも、似ているようだ。
人生に王道はあるか?
みなさんの人生に置き換えることは可能だろうか?
「人生には王道しかない」
私自身にとっての王道とはなんだろう?
「私にとって」という視点が、学問の場合と違い、重要になるはずだ。
一度きりのあなただけの人生。他人の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きる。
「抵抗」というキーワードでいうならば、他人に流されているうちは抵抗は少ない。逆に、人と違う自分の人生を生きようとすればするほど、抵抗が大きくなる。この抵抗をたまには感じられると、王道を歩んでいる気がしていくるはずだ。
森博嗣の言葉をもう一つ紹介しておく。
「あなたの人生には前例はない」
前例なんかない。それなら、どうする??
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