記事の内容
この記事では、野矢茂樹の「無限論の教室」という本を紹介します。
無限に関しての、数学の哲学がテーマの本です。
内容は会話形式です。
大学の授業空間が再現されています。
とても楽しい学びの空間を本書を通して、感じることができます。
最高に刺激的な一冊ですので、この記事では、まとめていこうと思います。
気になったトピックに分けて取り出してみます。
それでは、目次をどうぞ。
- 記事の内容
- 無限とはなんぞや?数学における無限を問い直す
- 無限において、全体と部分は等しくなるのか?
- 可能無限派は、対角線論法にケチをつける
- 可能無限派は、実数の集合を認めない
- 部分集合=概念
- 不完全性定理に対する可能無限派の態度
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無限とはなんぞや?数学における無限を問い直す
・アキレスと亀のパラドクス。
・矢と的のパラドクス。
パラドクスが生まれる原因は何か。
どちらにも、無限の仕事が含まれる。よって、無限の仕事が完了するというのは、自然数を数え尽くすというのと同じで、定義的に不可能である。
言い換えると、「線分が無限の点を含む」がパラドクスの源ということ。
では、線分が無限の点を含む、とはどういうことか?
2つの解釈がある。
・実無限派
無限個の点が寄せ集まって線分ができる。
到達され、完結した無限。
・可能無限派
線分を切断して初めて、点が取り出せる。作り出す、というイメージに近い。この操作はいつまでも繰り返せる。この可能性こそが無限である。
現代数学の基礎である集合論を確立したのがカントール。彼は実無限派。だから、現代の私たちも、無意識的に実無限派に近い。
例を見よう。
円周率Πは無限に続く小数だ。この値は確定しているか?
ほとんどの人は確定していると答えるはず。
無限をそこにある実体だとみなしている。
これは、実無限派の立場だ。
無限において、全体と部分は等しくなるのか?
自然数と偶数、どちらも同じ無限にみえる。
では、無限においては、全体と部分は等しくなるのか?
包含基準と対応基準は、たんに別々の異なる測定法というにすぎない。
より正確には、無限において、全体と部分の濃度が等しくなる場合がある、ということ。
あくまでも、濃度という視点で見ているだけ。
可能無限派は、対角線論法にケチをつける
カントールに連なる現代数学の立場からは怒られそうな話。
対角線論法はうさんくさい、と言う可能無限派。
そもそも、実数とは何か?
0.999999...=1と考える立場は、実無限派。
対角線論法では、有限の範囲ではなんの矛盾も起こらない。矛盾に限りなく近づくなんてこともない。無限になると、とたんに矛盾する。
自然数も、実数も書き尽くすことはできない。書き尽くすことのできないものを、まとめて一対一対応ができると仮定することがおかしい。
うーん、選択公理との関係も気になる。本書では、選択公理についての記述はない。現代数学は、選択公理を認めている。すると、選択公理の哲学、という分野を確認したくなる。
可能無限派は、実数の集合を認めない
「いつまでも続けてよい」という可能性としての無限。「果てしなく続く有限」ともいえる。すると、可能無限の立場からは、可算無限しか認められない。
では、無理数の扱いはどうなる?
ルート2、Πなどの無理数は数ではない。
対象を求めるための規則の名前である。
すべての実数を作る規則を与えることは不可能。よって、実数の集合は認められない。
あたかも順序づけられるかのような解釈が可能なために、数直線という実体化された均質なイメージができあがってしまった。
部分集合=概念
べき集合とは、ある対象の集合に対して、それを概念化する可能性全体。
概念化しうるものすべて、という可能性。
部分集合=概念。
次元という観点では、濃度は変わらない。
しかし、概念という観点では、濃度が変わる!!
実数とは何か?
それは、自然数に対する概念の全体である。
一方で、一般的な数学者がもつ実数全体の集合が存在するという態度は、概念に対する実在論である。
すると、「すべての集合の集合」を考えてもよさそうにみえる。しかし、すべての集合で、その集合の冪集合の濃度が大きくなる。これは矛盾である。
「すべての集合の集合は存在しない」という態度で、本当にパラドクスは解消できる?これは一貫した態度か?
不完全性定理に対する可能無限派の態度
完結した公理系など作れない。
無限は完成を拒む。
はみ出たものは常に生じる。
無限とは、永遠の未完成のことなのである。
よって、形式主義へのヒルベルトの望みは的外れ。
記事を更新していきます。
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