記事の内容
普段私たちが当たり前にしていること、コミュニケーション。
しかし、これを学問的に深く考えてみると、かなり常識的な感覚とは異なる側面も見えてくる。
「コミュニケーション」とはなんだろうか??
そこからは、人間の本質につながるような問いが浮かび上がってくる。それならばもちろん、心理や人工知能論とのかかわりも深い。
今回は、コミュニケーションについての基礎を再考できるいい本を紹介したい。
それでは、目次をどうぞ。
コミュニケーション 大澤真幸
《著者からのメッセージ》
コミュニケーションは奇蹟である。われわれは常に、他者たちとコミュケーションをとっている。だがどうしてそんなことができるのか。いかにしてコミュケーションは可能なのか。コミュニケーションが現に生起しているということは、大きな神秘、その謎が解ければほかのすべてのふしぎは消え去るのではないかと思えるほどに大きな神秘である。まずは、コミュニケーションの神秘がまさに神秘である所以を理解しておく必要がある。コミュニケーションはどのような意味で奇蹟なのか。
世界とは結局のところ、他ならぬこの私にとっての世界である。誰にとっても、世界は、〈私〉の認識と相関してたち現れており、それ以外に世界は存在しない。「〈私〉にとっての」という条件から独立した世界そのものは、誰に対しても現れず、存在しないはずだ。(本書「はじめに」より)
目次
第1章 コミュニケーションの(不)可能性の条件──沈黙の双子をめぐって
第2章 フレーム問題再考──知性の条件とロボットのジレンマ
第3章 根源的構成主義から思弁的実在論へ……そしてまた戻る
第4章 交換にともなう権力・交換を支える権力
第5章 脳科学の社会的含意
第6章 精神分析の誕生と変容──二〇世紀認識革命の中で
第7章 女はいかにして主体化するのか──河合隼雄の『昔話と日本人の心』をもとに
この目次を見ればわかるように、コミュニケーションを考えるために基礎から応用まで深く学ぶことができる。
本書のいいところは、とにかく話題が豊富なところ。このような広い範囲で、コミュニケーションという現象は軸になっていることがわかる!!そして、考察のいくつく先には、「他者」という概念が浮かび上がってくるのが興味深い。
興味がある人は、ぜひ手に取ってほしい。
本書から、何点か気になった点をまとめてみたい。
他者とフレーム問題
フレーム問題が、人間にとってそもそも問題にすらならないのはなぜか?
人間同士の会話の場合、受け手はそもそも関連あるものとして、発話者の発言を受け取るからだ。何が自分にとって関連あるのかないのか、その選択はそもそもないのだ。
このように、受け手が他者をある意味で信用するのが前提になっている。これは、そもそも人は「自己」を「他者」の存在によって確立しようとするからだ。とくに、本書では嫉妬という感情の重要さを元に論が展開されている。
本書では、双子同士でのコミュニケーションはできるのに、他の人とコミュニケーションできないという事例が分析される。
双子は、嫉妬の関係とその克服を通常通り形成することができなかった。そのせいで、任意の他者とコミュニケーションできなくなってしまった。双子は、外部に超越論的な他者を求める。しかし、本来、自己の内部にもあり、自己の同定そのものにつながるような二重の他者を形成できていない。
表象主義の限界
フレーム問題は、行為するものにとってのみ現れる問題だ。よって、状態の変化の記述の問題でもある。
フレーム問題の解決のために、以下のような対策が練られたが、どれも本質的な解決には至らなかった。
「行為によって明示的に変化させられたもの以外のすべてのものは、不変なままにとどまる」
「対象が過去の状況においてある性質をもっており、かつ新しい状況においてその性質が失われたことが証明されない限り、対象は新しい状況においてもその性質を依然としてもっている」
これは、記号やイメージという媒介によって認知が成り立ち、認知が行動に先立つという表象主義の限界でもある。このパラダイムでは、フレーム問題を解けるような人工知能は作れない。
それでは、どのような転換を果たすべきか?
次の土台が新たな出発点となる。
認識それ自体が行為である
認識=行為を支える非認識=非行為
フレーム問題が問題にすらならない私たち人間は、どんなことをしているのか?
それを、著者は「無視」という行為だという。
無知とは違う。知っているのにそれを問題化しないということだ。
記号的な過程に翻訳できるような、積極的に行われる何かではありえない。その本性からして消極的な操作なのだ。
無視という操作は、他者により、事後的に否定的に発見される。未来からの逆投影として、「かつてあったもの」として発見される。
消極的な操作の条件こそ、未来性と否定性だ。
しかし、未来にしか存在することのないいかなる証拠も残さない操作が、それでも、未来に先立つ時点において ーーつまり現在あるいは過去においてーー 実現されている、ということはどういうことだろうか?実際、無視する操作の存在の痕跡を、現在の行為=認識の内に直接求めようとするや、たちどころに困難に陥ってしまう。また、否定的にしか見出せない操作が、それでも、「存在していた」という肯定形で言表される存在を基礎づけるのは、いかにしてなのだろうか?
潜在的な他者
再帰的・循環的に概念を定義する態度と似ている。「以下同様な仕方で」という表現がその例だ。
「これまでと同様な」という態度は、「同様では決してありえないもの」への参照を、随伴している。同一性がそこには解消できない差異性と等値されてしまうような関係は、集合論が頻用するような再帰的な定義の形式のうちに初めから含まれている。
そして、無視というという操作の未来性、否定性からは、「他者」という存在が浮かび上がってくる。
他者とは、まさに、差異であることがどの同一性の条件であるような存在なのだから。他者、その本源的な姿においては、それについて私がどのように想定し、期待していたとしても、その想定や期待を裏切るかもしれない可能性として現れる。つまり、他者は、何者であるか、誰であるか、何であるかということを、あらかじめ積極的に規定しておくことが不可能であるような存在である。要するに、他者の同一性とは、誰・何でもないこと、つまり純粋な差異であること以外にはどこにもない。
そして、この他者は潜在化することによって、無視のような特殊な操作を可能にしてくれている、という。
思弁的実在論と他者
認識論的な有限性、私たちの理性には到達できない領域がある。世界の必然性を知ることはできない。
ここから逆に、この世界がまったく別様になりうるということは、相関性から独立した絶対的実在になる。偶有性こそが必然的に実在する、とするのが思弁的実在論だ。
この論証は、神の存在証明と同じ理屈だ。我々が神の概念を持つことができる、ということから、神の存在を結論する。
それゆえに、メイヤスーの思弁的実在論には反対意見がある。
私はどうして、この世界が偶有的であると確信できるのか?
著者は、他者の絶対的な実在を知っているからである、という。そして、偶有性という概念をさらに分析する。偶有性とは本源的に二重だ。もともと、自と他の二重性を前提にしている。
脳は社会なのに閉じている脳科学
脳は社会のようなものだ。
著者は、〈社会〉をつぎのように定義する。
〈社会〉とは、多数の独立の主体の集まりから成るシステムで、それなの間に ーーそれらが個々に独立に主体を有するがゆえにーー とうていありそうもない秩序が見出される現象である。
・盲視 残された旧い部署のよう。
・幻肢 融通の効かない官僚制のよう。
しかし、この脳の社会性から、意識や自己をどのように説明すればいいのだろうか。
ダマシオは、意識とは情動的な反応だ、とする。
刺激への反応により、意識が創出されるのだ。最初から主体的な意識があるわけではない。
意識の2つの性質である、持続的に変化することと、主体性の恒常的で安定的な核ということは、一見相反するようにみえる。
ダマシオによれば、意識の根源とは情動的な反応である。それならば、情動は嘘をつかないのか?
自分で自分の嘘に気がついていないような状況に人はよく陥る。実は、真実や嘘ということは、他者との関係の中にある。だから、他者の視点が脳には欠かせない、という。単一の脳に内面化された他者のことではない。自己を理解するには「外部の脳」を前提にする必要がある、と著者は言う。
まとめ
本書では、さらに多様な議論を深く楽しむことができる。本書で扱われていることを土台に、さらに応用的な話へすすんでいくのもいいと思う。
くわしくは、ぜひ本書へと進んでみてほしい。
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