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現代思想入門の決定版はこれ!!【感想・まとめ・紹介】現代思想入門 千葉雅也

記事の内容

 

この記事では、千葉雅也の「現代思想入門」という本を紹介します。

 

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現代思想のコンパクトな入門書として、決定版でしょう!

わかりやすいし、熱意のこもった魅力的な一冊です。

 

本書の面白いところ

・現代思想ってこーゆうもんだよね、というまとめが得られる

・脱構築という論法の解説がわかりやすい

・著者の現代思想への想いが熱い

・現代思想の次、最新の哲学への案内にもなっている

 

それでは、目次をどうぞ。

 

 

 

 

 

現代思想って、そもそも何を指すの?

 

1960年代から90年代までの、おもにフランスで展開された「ポスト構造主義」と呼ばれる哲学。

 

呼び方いろいろあってややこしいよね笑

 

 

 

 

現代思想の大まかな雰囲気は?

 

秩序を強化する動きへの警戒心。

秩序からずれるもの、つまり、差異に注目する。

 

現代思想は、秩序を仮固定的なものと見なし、たえず逸脱が起きながらも諸要素がなんとか共存する状態を考察している、というのが僕の見方なのです。

 

このように、著者は、秩序と逸脱に注目している。

 

このキーワードは、本書に繰り返し登場する。

 

 

 

 

フランス現代思想入門のために、何からするべき?

脱構築という論法に慣れよ。

 

ポイントは、二項対立概念の脱構築。

 

それでは、脱構築は、二項対立をどう処理することなのか?

 

簡単にいうと、物事を良し悪しの二項対立でジャッジするのをいったん止める、ということ。

 

そのため、本書は、まずデリダに注目する。

 

 

 

 

デリダ 概念の脱構築

 

二項対立概念の脱構築、という論法。

 

私たちは、二項対立という考え方を暗黙の前提にしがち。

 

・男と女

・善と悪

・大人と子ども

・健康と不健康

・秩序と逸脱

 

一般的には、プラス側だけを無条件に正しいものだとみなしがち。

 

脱構築では、プラス側だけでなく、マイナス側にも味方できるようなロジックを用意し、プラス側の意見に反対する。その結果、プラス、マイナスが依存し合うような、決着のつかない宙吊り状態に論理的に持ち込む。

 

保留、という冷静さ。

 

これが、脱構築という論法。

 

 

 

 

ドゥルーズ 存在の脱構築

 

Aである、Aではない、の脱構築。

つまり、存在の独立性、確かさを脱構築する。

 

存在の向こうには隠れている関係性がある。すべてが実は繋がっている。だから、区切られた物ではなく、連続した出来事として世界をとらえる。

 

無関係なものはない。しかし、すべてが同一になるわけではない。

無関係性、という関係もある。

よって、区別という無関係性も無くならない。

 

(とても、仏教の縁起の話に聞こえる。リゾーム=空のミニチュア版?)

 

繋がりと切断、このバランス感覚が面白いところ。

 

 

 

 

フーコー 社会の脱構築

 

権力に注意し、権力の脱構築をはかる。

 

支配されている側は、支配されることを積極的に望んでいる、という構造がある。

 

正常と異常の脱構築。

監視社会批判。

 

雑多な生き方を泳がせておくような曖昧さにこそ、他者性を尊重する倫理がある。

 

 

 

 

 

現代思想のの源流として、ニーチェ、フロイト、マルクスに注目する

 

秩序の外部、非理性的なものに注目した3人。現代思想に流れる、秩序よりも逸脱が重要、という見方の源流になっている。

 

 

 

 

 

現代思想と精神分析 ラカン、ルジャンドル

現代思想が難しいのは、ラカンの概念が暗黙の前提になっているせい。現代思想はラカンの精神分析批判という傾向がある。だから、ラカンを押さえておくといい。

 

ラカンの精神分析はあくまでも仮説。だが、実践的には効果がある、と観ていい。

 

精神分析における人のイメージ。それは、「人間は過剰な動物である」というもの。それを著者の千葉は、「人はエネルギーをもて余している」と言い換えている。

 

この次元での人のエネルギーの発露を、本能的次元の欲と区別して、欲動と言う。この欲動は、個人の成長によって現れ方が違う。この可塑性こそ、人間の特徴的なところ。

 

ラカンにとっての人の成長、つまり主体化とは、有限化のこと。子どもは、制限されることによって、主体を持つようになる。

 

その始まりは、一体だと思っていた「母」との分離。この欠如感をラカンは重視する。よって、ラカンの哲学を、千葉は欠如の哲学と呼ぶ。この根源的な欠如の埋め合わせとして、人は何かを求めてしまう。その象徴をラカンは、「対象a」と呼んだ。求めるが埋まらない、また、次を探す。人生とはこの繰り返し、ということ。

 

対象aを転々とすることで、到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐっていることになる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」としての現実界なのです。あの原初の享楽!

 

人の認知では到達できない外側の世界=現実界と、対象aの関係。とてもわかりやすい。

 

 

人が作る秩序の底には、説明不能な前提がある。それ以上、合理的な説明ができない地点。それを、ルジャンドルはドグマと表現した。

 

社会で生きていく上で、このどうしようもなさ、ドグマを人は強制される。これは去勢の一種である、とみる。これは抑制にもなるが安心にもなる。ここにも、秩序と逸脱、という構造が見てとれる。

 

 

 

 

 

あらためて、フランス現代思想、つまりポスト構造主義のまとめ

 

 

ポスト構造主義は、諸々の二項対立を脱構築する一方、同一性と差異というより大きな二項対立を設定して、差異の側を支持するものでした。しかし、この本で強調してきたのは、その同一性と差異の大きな二項対立にもさらに脱構築がかけられていて、必ずしも「差異バンザイ」なのではなく、差異と「仮固定的な同一性」の共存が事実上問題にされているということです。

 

 

 

 

ポスト・ポスト構造主義

 

21世紀以降、メイヤスーの思弁的実在論が流行っている。

 

思弁的実在論は、どんな方向?

 

現代思想では、人による意味づけの複雑さを主題にした。その結果、あらゆるものが相対性につながる。思弁的実在論はさらに進む。実在そのものの相対性を唱えるのだ。

 

人間による意味付けとは関係なく、それ自体として存在している事物へ。

 

このような世界があることに必然はない。

たまたまこうなっているに過ぎない。

世界は根本的な偶然性の上にある。

ただあるだけのこの世界。

 

この態度こそ、自然科学的世界観とマッチする哲学的な態度である。

 

世界の意味を言おうとするのではなく、世界の今そうである限りでの設計をただ記述するのが数理である。かつ、記述される世界は何らそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化してしまってもおかしくない。

 

人とは関係のない実在そのものの相対化。

 

メイヤスーのアイデアを借用しつつ、著者は、次のように、世俗生活の新たな深さに意味づけを行う。

 

身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。

 

思弁的実在論という抽象論と、普段の生活の関係性。著者からのヒントである。

 

 

 

 



 

 

 

 

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