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確率とはいったいなんなのか?確率の哲学入門【本紹介】

記事の内容

 

確率とはなんだろう?

 

確率とは何かという疑問を、もう少し具体的に言い換えてみる。

どのようにして確率の値はあてがわれているのか、だ。

 

これを説明する試みを確率解釈と呼ぶ。

 

 

数学や統計学では、確率の値はすでに与えられていることを前提にしている。確率の値はどのように与えられるのか、という点は深く掘り下げられない。

 

頻度=確率と考えていいのか?

 

数学や統計学に慣れている人でも、確率とは何かと問われると答えるのは難しい。

 

測度論的確率も、数学世界の話である。

数学や統計学で想定している「確率」の底の意味をもっと探求しなくていいのだろうか。

 

実際に、現実の頻度=確率とする立場には、まずい点がいくつもある。

 

数学での確率の定義に慣れている人ほど、なぜ確率の哲学などというものを考える必要があるのか、という点から始めてみるのがいいかもしれない。

今回の記事では、確率とは何なのかを深掘りできる本を紹介したい。

 

常に主題を意識して読んでみてほしい。その主題とは、

どのようにして確率の値はあてがわれているのか、だ。

 

 

 

現代哲学のキーコンセプト 確率 ダレル・P・ロウボトム

 

 

 

身近にあふれる「確率」を含む表現.受ける手術の失敗確率,火星に生命が存在する確率,カエサルが殺されなかった確率….それらはどのように理解すればよいのか? 近年の文献にもふれつつ,学生との対話形式を交えた臨場感あふれる講義スタイルで,確率の考え方と主な諸解釈を平易に解説する「確率の哲学」入門.

 

 

 

 

2つの確率解釈

 

ざっくりとは、次のように分けられる。この分け方は、科学や哲学の一般的な整理方法だろう。

 

・情報ベース

私たちの心理的理解としての「確率」。

主観的。

 

・世界ベース

世界の性質としての「確率」。

客観的。

 

しかし、主観/客観というわかりやすい二分は、うまい分け方だろうか。やはりそれには、「心と物」という分け方が前提にある。それならば、近年の哲学の歴史が示したとおり、それらの区分は絶対ではない。

 

著者は、情報ベースと世界ベースの確率解釈をいくつか説明してくれる。

 

さらに、ざっくりと二つの観点がある。

 

・一元論

唯一の正しい確率解釈があるとする立場

 

・多元論

文脈に応じて正しい確率解釈を探るという立場

 

何がただ一つの正しい確率解釈なのかと問うことそのものが見当違いなのでは、という指摘は大きい。個人的にも、本書を読んでみて「確率」とは絶対的な指標ではなく、社会的な合意形成、集団の意志活動に依存しているものなのでは、と感じた。

 

本書では、確率とは一体なんなのかに答えようとする7つの解釈が紹介されている。

 

それでは、世界ベースに基づく解釈である、頻度説、傾向性解釈を見ていこう。

 

 

 

頻度主義の穴

 

統計学などで素朴に考えがちな「確率=頻度」という考え方。じつは、これには論理的におかしいところがいろいろとある。

 

・頻度は有限回の観察に基づく。しかし、まだ誰も観察したことのないコインの確率はどうやって知ることができるだろうか?

 

・数回の観察ですべて表がでたコインの確率はどうなるか?もっと多くの試行をすべきだと感じるはずだ。しかし、それならば現実的に観察される範囲を超えてしまう。

 

・確率=頻度であるならば、すべての確率は「有理数」になることになる。しかし、量子力学などでは、有理数ではない確率値が存在する。

 

確率とは、日常生活でも無意識的に毎日使っている概念である。だから、統計学が対象としている確率解釈に対して、やはり疑問が残る。

 

 

 

確率とは、「傾向性」だ!

 

現実に観測される頻度ではなく、それを生み出している背景にあるものこそ確率だ、と考えることもできる。物が持っている性質そのものに注目する。それが、傾向性解釈だ。

 

確率とは、出来事の生成条件という性質のこと。

 

頻度という目に見えるものではなく、その背後にある長期的に安定しているような傾向性こそ確率である、と考えるのだ。

 

この傾向性解釈はその他の確率解釈よりも弱点が少ないのでは、と著者は分析している。

 

 

 

 

客観的ベイズ主義

 

情報ベース、つまり主観に基づく確率解釈の例も見てみよう。

客観的ベイズ主義だ。

 

ベイズ主義では、心理的な「信念の度合い」を確率の基礎に置く。それに、ベイズの定理を利用し、合理性を導入する。

客観的ベイズ主義とは、次のような条件をくわえた考え方だ。

 

・補正

観察された出来事の頻度、つまり、世界ベースの確率についての証拠に敏感であるべき。「情報」と「世界」を結びつけている。

 

 ・曖昧化

もっていない、知らない情報については、中立的であるべき。「無差別の原理」に近い。

 

しかし、これにも批判がある。

補正における「合理的な態度」とはいったいなんなのか。合理非合理の線引きは難しく、認識論的な話になってしまう。さらに、補正と曖昧化はぶつかり合ってしまう可能性がある。知らない情報に対しては中立であるべきなのに、なぜ新たな証拠に基づいて信念を補正しなければいけないのか。

 

 

 

 

確率とは面積である

本書でやや残念なことは、数学的な確率論についてあっさりとしか触れられていないことだ。

 

現代的な確率理論のイメージは、次のように表現されることがある。たとえば、次の記事で紹介されているようなものだ。確率とは面積だ

 

数学では面積をさらに一般化した測度論という理屈で、確率の基礎が与えられる。実践的にも、「確率=面積」とイメージすることで、確率論の勉強のしやすさはたしかに上がる。

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確率とは面積だ。

 

神様の視点・・・完全に確定した面積の問題
人間の視点・・・不確定に揺らぐ確率の問題

 

このようにイメージすれば、確率の計算とは、面積計算として解釈できることになる。

 

しかし、この「確率=面積」というのも、一つの解釈であろう。これには、どんな弱点があるだろうか?

 

全体を見渡す神様視点が必要であり、それは現実世界に実現していない可能世界を要請する。現実世界だけを見ても観察できないということから、完全な世界ベースではないことになる。であれば、頻度主義とは違う。

 

「神様視点」「人間視点」をいったりきたりすることを要請するのだから、それは個人の主観の中で操作されるものだ。ならば、情報ベースの解釈なのだろうか?

 

しかし、人間が日常的に物事の傾向性をつかむためには、無意識レベルで可能世界を要請している気もする。人間が確率ぽいことを使うとき、そこには、可能世界を無意識的に前提にしているのだろうか。であるならば、傾向性解釈の一種として考えられるか?

 

うーん、難しい。

 

 

 

 

まとめ

 

以上のように、確率の正体をめぐってはいろいろな説がある。いまだに決着がついていないのだ!!!!毎日、確率概念を使っているというのに、驚きである。厳密な正体を知らないのに、私たちはその概念を使えている。これには、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの香りがしてくる。

 

また、確率を仮定して、世界のことを推論しようとする試みが統計学である。統計学についての深掘りは次の記事を見てみてほしい。

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より詳しくは、ぜひ本書へ。

 

 

 

 

 

 

 

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