記事の内容
自由は、目的ではなく手段にすぎない。
では、何のための自由か?
みなさんこんにちわ、メタです。
今回も、好きをぶち抜いていきましょう。
この記事では、名著のエッセンスを紹介します。
今回紹介する本は、
『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』です。
自由は大事だとみんなが思っているのに、自由を論じるのは難しい。
殺人の自由や売春の自由を規制する理屈、説明できるでしょうか?
自由を論じるための著者なりの整理が、本書の狙いです。
自由は手段であり、その背後には「目的」がある
自由ではない自由
価値や好みを誰かに強制されず、自発的に選択できること。
これが現代の自由のイメージだろう。
しかし、私たちは本当にこの意味での自由な状態だろうか?
自由な選択といっても、
・今晩の食事は何にするか
・今日の服装はどうするか
などの限られた範囲のものでしかない。
つまり、自由は、現代の市場経済という特定のシステムのもとでしか成立しないのではないか?
わたしたちの自立した選択というのも、市場経済に依存した行為なのだ。
市場経済は、そもそも自由という概念をもとに発達した。
しかし、今や市場経済がわたしたちの自由を規定している。
この状況を、自由が自由を蝕んでいる、と著者は表現する。
「個人の選択の自由」の背後にある「何か」
個人の選択の自由。
現代では、自由そのものが目的のようになっている、と著者は分析する。
本来は、ある目的のために自由という手段が必要だったのだ。
だからこそ、自由を論じるには、自由を支えている「目的」を考える必要がある。
その目的こそ、自由と一見対立しているような概念だ。ある種の規律である。
1 共同社会の価値
1つ目は、共同体による評価だ。
学校や会社、国には共通の価値観がある。
個人の自由な行動でも、それが価値に関わるものなら、共同体による評価がセットになる。
たとえば、どんな会社が良いのか悪いのかという価値観が社会に存在しているから、私たちは就職先を選べる。
自分で選んでも、属している共同体の価値感に依存してしまうのだ。
2 超越的な「義」
共同体のレベルを超えた超越的な規範への自発的な従属。
「義にかなう」という次元だ。
この義こそ、人にとって自由よりも本質的なものだ、と著者は考える。
自由は手段である。だからこそ、自由は何をなしたいのかという目的とセットで語られなければいけない。
自分の生を投げ出してでも達成したいという目的こそ、「義」である。
イスラム過激派のテロにこの「義」が存在するなら、それを否定することは私たちにはできない。
私たちにできるのは、わたしたちの「義」で対抗することだけだ。
「自由=個人の選択」という次元で決着がつかない問題は、それらの背後にある「義」を議論の土台に置くべきなのだろう。
多層で語れ
自由の問題は、「個人の選択の自由」というレベルだけで語るべきものではない。
それを支えている2つの次元、「共同体の評価」と「義にかなう」をセットで考えるべきだ。
つまり、殺人の自由を規制することを論じるには、殺人というものへの社会の評価、そしてその社会が採用している「義」を考慮する必要がある。
以上が、著者の整理だ。
みなさんはどう感じただろうか?
さらに詳しくは、ぜひ本書へ進んで見てほしい。
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